『バット・オンリー・ラヴ』は、1997年の『ふくろうの夏』(『熟女のはらわた 真紅の裂け目』)以来、18年ぶりの監督作です。なぜ撮らなかった、あるいは撮れなかったのか? 脚本家、俳優としては活動を続けていますね。

佐野:90年代なかば頃から、最後の砦だと思っていたピンク映画でも、どうでもいいような制約が出てきて、何となく映画がつまらなく感じてしまって…。血が出ちゃダメ、犯罪を描いちゃダメ、汚いものを映しちゃダメとか。もちろん小屋主(劇場)からの意見もあったんだろうけど、最後は製作会社の判断だったと思う。そういうところで「モノ」をつくることがバカらしくなっちゃって…。一応、悩みだけは一丁前だったんだよね。続けるなら、もういちど自主制作に戻るのがベターだと思ったけど、その気力もなくなってしまって…。撮らない間も、脚本を書いたり、演じたりしていたのは、やっぱり現場が恋しかったんだと思う。

2011年7月に咽頭癌の手術を受け、大きな病気を乗り越えての監督復帰となりましたね。

佐野:喉の違和感は入院の5、6年くらい前から感じていたけど、病院とか役所とか銀行とか、そういう場所に行くのがとにかくキライで、放っておいた。けっきょく咽頭癌でレベルⅣ、手術が必要で、手術をすると声が出なくなるということがわかって…。術後は、身体に管がいっぱい入っていて、ほんのちょっと体の向きを変えることもひとりではできない。情けなくてホント絶望的だったよ。そんな時、まだ術後一週間しか経ってなかったんだけど、ナースが何気なく病室のカーテンを開けてくれた。そうしたら窓の外に青空が広がっていて…。その時、自分がまだ世界とつながってると感じた。「生きたい」って思ったよ。そうすると、また映画が撮りたいっていう気持ちも起きてきて…。それからは、まずとにかくよく食べよう、と。できるだけ早く自力で歩けるように車椅子を卒業して、無断で外のスーパーマーケットまで食材を買いに行った。病院食だけじゃ楽しみも栄養も少ないからね。

今回の企画はどのように立ち上がっていったのですか?

佐野:入院中に旧知のキャメラマンの斉藤幸一が見舞いに来て、「佐野に映画を撮らせる!」って言ってくれたんだよ。5年生存率が20%の俺に死に際を用意しようとしてくれたんだと思う。それでも怠惰が沁みついた病み上がりの気持ちはなかなか動きださなくて…。そんなときに坂本礼監督から「佐野さん主演で撮りたい」という話があった。寺脇研プロデュースで、坂本が監督でという話が進んでいたの。で、「それなら俺にも書かせて」と久しぶりにシナリオに向かうことになった。けっきょく紆余曲折あって、脚本、主演、そして監督も兼ねることになったんだけど…。寺脇さんも「佐野の映画が見たい」って言ってくれたし、坂本はチーフ助監督を買って出てくれた。今回は昔の自主映画やピンク映画の仲間に関わってほしくていろんな人に声をかけた。18年前に撮った映画に出てくるフクロウも登場するよ。

久しぶりの撮影現場は、いかがでしたか? ピンク映画を撮っていた時期はフィルムでしたが、今回はデジタルと機材も変わっています。

佐野:フィルムの時といっしょで、キャメラの横にへばりついて芝居を見てるから、そこは変わらなかったよ。ただ、声が出れば簡単に済むことが、ひと手間もふた手間もかけないと伝わらない。最初はもどかしかったけど、そのうち今の俺の「言葉」になっているボードで、充分コミュニケートできるようになったと思う。助監督の坂本が、俺がボードに書いたことを読み上げてくれたし、少人数の現場だから、ひとりひとりに説明して歩くことができた。みんな大きな号令で動くわけじゃなくて、それぞれが考えて動いてくれるから、チームワークもよかった。今回ほど「映画はひとりじゃ作れない」って痛感したことはない。いい現場だったと思うよ。自分の芝居以外は…。

自身の演技には満足していない?

佐野:うーん、そこが(主演・監督)掛け持ちのダメなところで、現場ではやっぱり監督の思考で動いている部分が多い。本当は完璧に監督と離れて、役者として芝居に没頭しなきゃいけない。今回はそれもテーマのひとつだったんだけど…。ちょっとヤリ残しちゃったな…。

2016年1月24日 東京・高円寺にて